お世話になっております。
宗徳寺副住職でございます。
当山が提供させて頂いております「通信写経写仏」。
有難いことに、テレビやyoutube等に取り上げて頂き、大変多くの方にお取組み頂いております。
お取組み頂いた皆様、誠にありがとうございます。
写経写仏に取り組む中で、こころの安穏が少しでも増しますようお祈り申し上げます。
さて、その通信写経写仏に取り組み、電子納経(写真をメールで送信)をして頂いた証にお渡しさせて頂いております、「電子御首題御朱印」ですが、思うところがあり書き入れる文言を少々変更させて頂くことと相成りました。
●変更前=疫病退散
●変更後=疫病教化
これまでは、「疫病退散」と書いていた所を「疫病教化」に変更致します。
🔸何が違うのか?と申しますと、
「疫病退散」=「コロナウイルスを無くそう!どっかいって!」に対し、
「疫病教化」=「悪しきコロナが良き縁に変わり、御守護頂きますように」
とのニュアンスになります。
変更を思ったのは、『法華経』の教えから改めて考えた結果であります。
法華経という教えは、
「すべてが救われる教え」。
それは、
「悪いものは排除。良いものだけ残す。」という考えではなく
「教えに導かれ悪しきものは良きものへ。良きものは、さらに良きものへ転ずる(変われる)。」という考え方です。
言ってしまえば、「人のいのちを奪うコロナウイルスでさへ、法華経の教えによって導かれ、良き縁・モノへ変化する。」というものです。
到底受け入れがたい!と感じるところもあるかもしれません。
ましてや、コロナによって多大なる影響を受けた方や、お亡くなりになられた方からすれば、冗談じゃない!早く消え去れ!と思われて当然とも思います。
ですが、少し考えてみてください。
誰かに対し、心の中の憎しみや恨みを言葉にしたとしましょう。
「うざい!」「嫌い!」「死ね!」「お前なんかいなければよかった」
言った直後は、理性よりも感情が前にでている為、「すっきりした」「せいせいした」と感じているでしょう。しかし、時がたてば「言ってしまった後悔」がやってはきませんか?
後悔するということは、言ってしまった時の心が、いうなれば「地獄」に落ちていたのかもしれません。
誰もが好き好んで、自分以外を悪く見たくありません。言いたくありません。
それでも「つい」見てしまう時がある。言ってしまう時がある。人間ですもの。
それが実体のない、感情のない「病」だとしたら、その罪悪感は皆無に等しいことでしょう。
ですが
本質的には、対象が「人」だろうが「モノ」だろうが「動物」だろうが「病」だろうが関係は無いようなのです。私たち「自身」がどうなのか、なのです。
そういった意味では、関わりたくはない「病」ではありますが、あえて「病を否定するこころ」よりも「病からなにか学ぶこころ」を持てたほうが、どうやら「こころの健康」に良いようです。
「カラダを病に蝕まれたとしても、ココロまで蝕まれてはいけないよ」
私の祖父(宗徳寺先代住職)は晩年、「脳梗塞」、それに伴う「半身不随」、併せて「末期癌」を患っておりました。
私たち家族は「なんでおじいちゃんが」と嘆き、悲しみました。
しかし、当の本人が上の言葉を口にしたのです。
「病になったから、当たり前に動いていた自分の体のありがたみが分かった」とも言いました。
法華経の教えは「許す教え」といっても過言ではありません。
一つでも多くのことを「許せるこころ」を持てたとき、そのお心はまた一歩仏さまにお近づきになられたことでしょう。
どうか、そんな考え方もあったのかと、頭の片隅にでも留めおいて頂ければ幸いに存じます。
合掌 九拝
南無妙法蓮華経
日穏
追伸:ただの業務連絡程度のつもりが、説教臭くなってしまいました(笑)お読みいただきありがとうございます♪
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